和泉森太 回顧録

父・和泉森太が2023年3月10日に世を去りました。享年75歳でした。長男である私の言葉で父の生涯を回顧します。

父は1947年、団塊の世代として東京に生まれました。4人兄弟の3番目の次男でした。父方の祖父・勇太郎は日本交響楽団(後のN響)首席チェロ奏者、祖母・不覊子はタイタニック号遭難から生還した元鉄道官僚・細野正文の娘でした。父には同年同月生まれで兄弟同然の付き合いをしていたという従兄弟・細野晴臣がいます。

音楽家としての祖父は破滅型の人物だったようで、家計を顧みなかったと祖母からよく聞きました。兵庫県西宮市に居を移してからは、父は弟と朝日放送児童劇団に所属して家計を助けていたそうです。児童劇団では標準語を使用する必要があったため、関西で生活しながらも関西弁になることは無く、父から関西弁を聞くことはありませんでした。

父が母と結婚したのは1973年です。その3ヶ月後に長男である私が生まれました。母は幼稚園教諭、父は日本社会事業大学の学生でした。私に続いて3人の妹が生まれて、4人の子持ちになりました。

大学卒業後に父が就職したのは、相模湖病院という精神病院のソーシャルワーカーでした。その後、国立神戸視力障害リハビリテーションセンター(現在、国立障害者リハビリテーションセンター自立支援局神戸視力障害センター)の生活指導員に転職します。国家公務員になったことに当時西宮在住であった祖母は喜んでいたようです。

1979年に厚生省本省の行政職への転換を打診されて東京に転勤することになります。
地方採用の上級職待遇ではありましたが、幹部を目指すキャリア上級職ではありませんでした。

千葉県市川市に家を借りていましたが、公務員の給料で4人の子持ちの家計は苦しかったようです。父は生活保護申請して補足給付を受けられるのではないかとふと思いつきました。当時、社会局生活課という生活保護行政を司る部署の課員だったこともあり、上司から止めてくれ、官舎を世話するからとの言質を得たそう。東京都北区赤羽台の公務員宿舎に引っ越すことになりました。

本省では、介護保険制度創設準備の時期にシルバーサービス振興室に所属して、いわゆる福祉ミックスとしての民間活用の方針を形成した貢献があったようです。京極高宣教授(後に日本社会事業大学学長、国立社人研所長)を老人福祉専門官として厚生省に招聘し、大学から学者を行政職に呼んで、また大学に戻ってもらうサイクルを作ったそうです。難しい仕事として生前の父が少しだけ漏らしていたのは、生活改善係長という同和対策を所管する話でした。「地域改善対策特別措置法」の延長について、利害関係者と酒を酌み交わし懐に飛び込むような交渉をしなければならなかった、詳細は墓場まで持って行くといった話を聞きました。

本省勤務の合間の地方勤務は埼玉県所沢市等のリハビリテーションセンターや附属病院でした。労働組合・全厚生の執行委員長という組合専従も経験しました。最後は函館視力障害センターの指導課長として定年を迎えました。

霞が関には、病気などで中途失明して現職を追われる国家公務員の方々がいました。そういった方々の相談にのっていた父は、有志の方々と「中途視覚障害者の復職を考える会(通称:タートルの会)」を創設し、初代会長に就任します。現在は認定NPO法人タートルに発展しています。今でこそ公務員の社会貢献としての兼職は誉められる風潮がありますが、当時は大臣官房から目を付けられる状況だったようです。

最後の任地となった函館に定年後も住み続けます。地元の方々の願いに応えるため、NPO法人ユニバーサルホーム函館をつくる会を設立して、初代理事長に就任します。障害を持つ方でも安心して暮らせる住宅を確保することを目指し、サービス付高齢者向け住宅の補助金等を得ながら「はこだての家 日吉」をオープンします。残念ながら、役人人生を送ってきた父にとって採算を取る民間事業の経営は難しかったようで、資金繰りに窮して周囲に迷惑をかけながら、最後には失意の中、東京の実家に戻ることになりました。

晩年、新幹線や飛行機を使った遠方までの徘徊をするようになり、家族は振り回されました。現地でへたり込んでいて救急車を呼ばれたり、タクシーに行き先を明確に指示できず警察に保護されたりして、想定外の出迎えを求められたからです。2022年11月には北海道余市で帰宅旅費も無く保護されたときは言葉を失いました。

父の死は、2023年になって地元の地域包括支援センターのお世話にもなり、要介護2の認定を受け、在宅での生活を安定させようとした矢先でした。自宅の風呂場で亡くなったため、検死の必要があり、警察の事情聴取にも応じなければなりませんでした。病院のベッドで亡くなるのでなければ一律で変死扱いになってしまいます。死亡届を提出するにあたって、病院で亡くなると「死亡診断書」、検死を受けると「死体検案書」という違う書類になることを初めて知りました。遺体は警察署で一晩を過ごし、検死の結果の死因は虚血性心疾患(心臓マヒ)となりました。溺れていたわけではなく、巷で話題になるヒートショックだったのかもしれません。

本人の希望で、医学部解剖実習用の献体の登録をしていました。遺体保存状況にも関わるので引き取りまでそれほど時間をかけられないのと、本人も生前から葬儀はいらない・数年後に骨が返還されたときに納骨のお経を読んでくれれば十分と言っていましたので、親族のみのお別れとしました。本人の意志を尊重します。

父の生き様を振り返ると、公(おおやけ)に報いる姿が浮かび上がります。公僕として当然のことかもしれませんが、仕事を離れても頼ってくる不遇の人々の役に立ちたいと行動してきた姿がありました。75歳という年齢は、男性の平均寿命よりは短かったものの駆け抜けた人生としては十分な長さがあったようにも思います。友人知人の皆様には、生前のご厚誼に感謝を申し上げて、結びとさせていただきます。