ケイパビリティの現実
2月6日に政策研究大学院大学を会場に行われた福島大学大学院東京サテライトキャンパス開設記念フォーラムは、前半にアマルティア・セン教授講演、後半に震災復興をテーマにしたシンポジウムという構成だった。パネリストは鈴木参議院議員・元文科相副大臣、黒川政策研究大学院大学教授・国会事故調委員長、吉岡立教大学総長、そして入戸野福島大学学長だった。
パネリストの意見表面の後、フロアからの質問を受け付けたとき、とても印象深い人があてられた。自ら自分は高卒で子どもは大学生と語る「主婦」だった。新聞広告か紹介記事でも見てきたのだろうか。外交関係者、大学関係者、大学院生といったマジョリティからは少し浮いた質問者だった。
セン教授のケイパビリティの後であったために、その方の近視眼さがより浮き彫りになった。質問に名を借りた主張が2点あり、一つは「原子のことがよくわかっていないのに原子力発電なんてやるから事故が起きたんだ。全部分かっていない技術を使わないで欲しい。」、そしてもう一つは「学生には(無償)ボランティアを義務化して欲しい。」ということだった。
最初の主張を聞き入れたら、何もできなくなることは想像のらち外らしい。因果関係が分からなくても相関関係が分かっていて実用化されている技術はいくらでもある。例えば医療の領域で考えると、効くと分かっているクスリでも因果関係が全部わかっていなければ取りやめなければならないのだろうか?あらゆる科学技術研究は、ここまでは分かったという線引きをしながら実用化されているのが現実だ。2点目の主張では、大学生にボランティアを義務化する前に中高生で既に義務化同様の動きになっていることを知らないのだろう。そして受入側がとても苦労していることも。また、震災後は多くの大学で単位化されて、学生にとってボランティアをやるインセンティブは十分に与えられている。もっと言い足せば、ビジネスが成立しているところにボランティアが乗り込むと、ただ働きの不経済が発生する。ビジネスが成り立たなくなるだけではなく、公共財としての過小供給に陥ってしまう。
ちなみにフロアから主婦の意見が飛び出した後、パネリストの中でまともにコメントらしき発言をしたのは吉岡立教大学総長のみで、他の方々は華麗にスルーしていた。吉岡総長は「専門家は狭く深く研究していく傾向があって~」と述べ、専門家の説明が不十分であることをわびるような口ぶりではあったが、うがった見方をすれば本当は分かっている知見だ、あるいは全部分かるなんてあり得ない、と言外に言いたかったのかもしれない。他のパネリストは、質問を馬鹿馬鹿しいと切り捨てたか、主婦を納得させる言葉を持たないとあきらめたのか、どちらなのだろうか。
社会人学生にも2タイプあって、自分の経験に固執し学ぼうとしない人と、学びながら自分の経験を位置づけ直す人がいる。この主婦にとって大学に入って学び直すという選択肢は見えていないらしい。思い込みと決めつけと、人の話に耳を傾けない態度は、スルーしたパネリストが共通して感じていたことかもしれない。個々人に与えられた潜在的な選択能力、ケイパビリティの欠如こそが貧困なのだとセン教授は言っている。目の前にある選択肢が見えないことこそ貧困の証明であり、はからずも実例を観察することになった。